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元サッカー選手大野俊三さん~前編~

2014年11月1日10時00分

元アスリートが語る スポーツの仕事「やる」から「つくる」へ - Vol.2 –
元サッカー選手大野俊三さん~前編~

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今の仕事が監督業なんです
大野俊三(おおの・しゅんぞう)さん/49歳 サッカー選手→スポーツ施設・ホテル運営(鹿島ハイツスポーツプラザ支配人) 文・太田弘樹
大野俊三(おおの・しゅんぞう)さん/49歳
サッカー選手→スポーツ施設・ホテル運営(鹿島ハイツスポーツプラザ支配人)
文・太田弘樹
大野俊三(おおの・しゅんぞう)さん/49歳 サッカー選手→スポーツ施設・ホテル運営(鹿島ハイツスポーツプラザ支配人) 文・太田弘樹
アマチュアからプロへ
ジーコが変えたサッカー観

1993年Jリーグが開幕。それと同時に、アマチュアサッカー選手はプロサッカー選手になり、一躍注目の的になった。

鹿島アントラーズの守備の要として、活躍した大野俊三さんもその一人だ。

大野さんは高校卒業後、住友金属工業に就職。同社には蹴球団があり、仕事をしながら、好きなサッカーができるという理由で、定年まで働こうと決めていた。しかし、Jリーグ発足にともない同社を退職する形で26歳のときにプロ入りを決意した。

サッカー観をアマチュアからプロへと変えるきっかけとなったのはジーコ。92年Jリーグ開幕の1年前に来日。ピッチ、ピッチ外と、その両面のお手本を見せてくれた。

「彼は練習にくると、自分の着ていた服をきちんとたたんで、ユニフォームに着替えたんです。何で?と聞くと、『帰ってきたときにぐちゃぐちゃだったら気持ち的にも整理がつかないだろ』と言われました。真似てみようかなと思いましたね」
ジーコの立ち振る舞いを見て成長していった大野さん
ジーコの立ち振る舞いを見て成長していった大野さん
ブラジル代表、ワールドカップにも出場し数々の栄光を手にしてきたジーコの立ち振る舞いを見て、盗む。大野さんを大きく成長させ、Jリーグが開幕した93年のファーストステージではチームの優勝に貢献。同年には、日本代表に選出され、ドーハの悲劇を経験した一人としても知られている。

そんな中、1回目の転機が95年にやってきた。若手に切り替えたいという理由により、鹿島アントラーズから戦力外通告を受けたのだ。

 「当然来シーズンもあるものだと思っていましたからね。この先どうしよう、どうなるんだろうと思いましたし、家族にもいわれましたね」
コーチを辞め、鹿嶋に戻る決意
『何とかサッカーを続けたい』
鹿島アントラーズになるときに、同クラブのフロントスタッフに入った住友金属工業時代の担当者に伝えたことがきっかけになり、J2からJ1に昇格した京都パープルサンガから、『経験を活かしてほしい』と打診され、京都行きを決意した。

しかし1年後、年齢の問題や結果が出なかったことがきっかけになり、現役を引退したが、当時のゼネラルマネージャーからコーチ就任のオファーが来て、指導の道に進んだ。

2回目の転機は2000年。97年から務めたコーチを辞め、鹿嶋に戻る決断をした。

「鹿嶋には95年に購入した家があったんです。家に帰りたいという希望がありました。また、知り合いの人が広告代理店業をしていて、一緒にやってみないかといわれたんです。代理店は、鹿島アントラーズのためにスポンサーを集めることも業務としていました。毛色は違いますが、アントラーズに携われる仕事、もしかしたら将来コーチになれるかもしれないという希望がもて始めました」

住友金属工業のころの仲間たちがたくさんいる。生活環境は鹿嶋がいいと思っていた。だからこそ、サッカーに携わる仕事とは、全く違う職業を選んだ。

※11月2日時点
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