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2020年12月23日16時40分

【元ハンドボール選手 東俊介さん】元アスリートが語るスポーツの仕事「やる」から「つくる」へ -Vol.30-(後編)

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「夢はハンドボールをメジャーにすること」
元ハンドボール選手、東俊介さんに話を聞きました


30回目 東俊介(あずま・しゅんすけ)さん/45歳
ハンドボール選手→会社役員(当たるんですマーケティング取締役など)

取材・文/斎藤寿子

アンフェアな“中東の笛”との闘い
大崎電気工業に就職し、ハンドボール選手として活躍していた東俊介さん。2006年には、08年北京五輪の予選に向けて、再び代表候補に招集。31歳とベテランになっていたことに加え、前年の世界選手権のメンバーから外した監督が続投していたため、選考にも引っかからない可能性は十分にあると考えていた。だが、東さんも候補メンバーにしっかりと入っていた。不思議に思った東さんは、合宿初日の夜、監督の部屋を訪れて自分を呼んだ理由を聞いたという。すると、監督から思わぬ返事が返ってきた。

「一番つらい時にチームや仲間のことを一番に考えられる選手。だから、キャプテンになってほしいと思って呼んだ」

1年前、代表落選したあの日、チームメイトに温かい言葉をかけた東さんの姿を、監督はしっかりと目に焼き付けていた。

自分を信頼してくれた監督の期待に応えようと、東さんはキャプテンとしてチームを牽引しながら、自分自身のレベルアップに努めた。当時は、所属する大崎電気でもキャプテンを務めていた東さん。同年の日本リーグでは「シュート率賞」に輝くなど、心技体すべてにおいて充実したシーズンを送った。

そして、再び世界選手権の予選に出場した。しかし、そこで待ち受けていたのは“中東の笛”だった。アジアハンドボール連盟はクウェート人の会長をはじめ、中東出身の理事が過半数を占めていた。

そのため、裕福な中東の国々が審判員を買収するなどして有利な判定をすることが起こっていた。あまりにもひどい実情に“いくら頑張ったところで意味がない”と心が折れてしまう。

その後も練習は続けていたものの、すっかりやる気を失った東さんは、お酒を飲むことでごまかしていた。そんな生活が半年ほど続いたある日、妻から子どもを授かったと伝えられた。目の前にエコー写真を差し出された瞬間、気持ちを切り替えることを決心し、お酒を飲むことをやめた。

『中東の笛を何とかしなければいけない』

そう考えた東さんは、07年に愛知県で開催された北京五輪のアジア予選のメンバーから外れても、自ら日本の応援団長を名乗り出た。大応援団を結成し、大勢の“目”を光らせることで“中東の笛”を抑止しようとしたが、収まることはなかった。

予選終了後、2位と3位で北京五輪への切符を逃した韓国と日本は猛抗議し、国際ハンドボール連盟がついにそれを認め、“日韓戦”の再戦が決定。勝った方が正式に出場できることになり、日本でも最大の“ハンドボールブーム”が巻き起こったことは記憶に新しい。結局、日本は韓国に敗れてしまったが、それ以降“中東の笛”は鳴りやんだ。
引退後は早稲田大学大学院に進学
『ハンドボールをビジネスにしたい』と考えた東さん。大学院へ行くことを決めた
2009年、地元の石川県で開催された日本選手権を最後に現役生活に終止符を打った東さんは、翌年に早稲田大学大学院に進学し、現在東京五輪・パラリンピック推進本部事務局長を務める平田竹男教授の下、スポーツマネジメントを学んだ。

理由は、『ハンドボールをビジネスにしたい』と考えがあったからだ。きっかけは、潤沢な資金をハンドボールに注いでいたホンダが、04年にチーム活動を大幅に縮小したことにあった。選手たちには、日本リーグ6連覇を達成したその日の夜に告げられたという。

「04年にはプロ野球の近鉄バファローズが消滅したこともあって“強いだけではダメ”と感じました。たとえ五輪で金メダルを取っても一時のスポットライトで終わってしまう。ビジネスとして成功させていかなければ、長くは続かないと考えるようになりました」

現役引退後の大学院行きは、その第一ステップだった。

大学院卒業後は、引き続き大崎電気のチームの仕事をしながら、地元のイベントに積極的に参加するなど、地元に根付いたチーム作りを目指した。しかし、コーチへの就任を求めていたチーム側と、マーケティングやマネジメントの面からチームの活動を支えたいと考えていた東さん側の方針が合わず、1年後にチームスタッフから外れ、2年間はサラリーマンとして働いた。

そんな中、日本体育協会(18年4月1日から日本スポーツ協会に名称変更)が、東日本大震災の復興支援事業として、スポーツの力で子どもたちを笑顔にして、夢と希望を与えることを目的とした『スポーツこころのプロジェクト』の“夢先生”に抜擢。

「僕の夢は、ハンドボールをメジャーにすること。今はまだ遠い夢だけど、必ず叶えるので、みんなも夢に向かって頑張っていこう」

と子どもたちに熱く語った。その言葉に共感したトヨタ自動車の張富士夫会長(現相談役)からのバックアップで、再びハンドボール界にカムバックした。

12年、日本ハンドボールリーグ機構の総務規律・広報委員に就任した東さんは、翌年にマーケティング部を設立。しかし思うような活動ができず独立を決意。16年には大崎電気を退社し、サーキュレーションという会社に就職した。そこは、様々なスキルを持つ専門家たちが副業・兼業でプロジェクトチームを作り、企業の経営課題解決を支援することをメインの事業で行っていた。

このビジネス体形が、“これからのスポーツ界にも通じるのではないか?”と大きな関心を抱いた東さん。当時40歳だった東さんは、社内では最年長。しかし、20代、30代の若い社員から電話でアポイントすることから教わり、経営コンサルタントとしてのスキルを身につけていった。
競技に+1を加えることが強みになる
2017年よりサーキュレーションとはパートナーとして関わりながら、現在は複数のスポーツ関係企業のアドバイザーを務めるなど、様々な事業を手掛けている。なかでもメインとしているのが、昨年10月に取締役に就任したオートレースをロトくじ感覚で楽しめる重勝式投票券を取り扱う企業『当たるんですマーケティング』の事業。スポーツやアスリートの持つ“応援される力”をお金に変えていくことが、スポーツをビジネスにする大きな後押しとなると考えているからだ。

そしてこうした活動は、すべて“ハンドボールをメジャーにする”という最終目標を叶えるためにある。決して財政的に楽ではない業界で大きな活動をするためには、まずはボランティアでやるしかない。とはいえ、家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。

だからこそ、まず必要なのは『経済力』。そして、自分自身の活動に賛同し協力してくれる『仲間』の存在も重要だ。だからこそ、今は経済力と人脈づくりに勤しんでいる。また事業のほか、イベントなどにも積極的に参加し、元日本代表キャプテンというブランドを活かし、ハンドボールの普及活動にも力を入れている。そんな中、東さんが今考えているのは、ファンの拡充だ。

「ハンドボールがビジネスとして成功するには、ハンドボールにお金を出す価値を見出してもらうことが重要で、そのためにはハンドボールを好きになってくれる人を増やさなければいけません。ただ、チームを強くして世界一になったところで、一過性で終わってしまうのは、ほかの競技を見ても明らかです。強化だけでなく、ハンドボールを心から好きになってくれる人を増やすことが大事。まずは、ハンドボールを知ってもらうための活動に力を入れています」

そんなキャリアを歩んでいる東さん。最後に、引退後のキャリアを考えている現役選手に向けてアドバイスを聞いた。

「一生懸命になることは大事ですが、競技ばかりに集中しすぎない方がいいと思います。1日は24時間。たとえトレーニングに8時間かけ、8時間睡眠したとしても、残り8時間あります。その空いた時間を何に使うかです。競技という専門分野に加えて、もう一つプラスできれば、それが強みになるんです。例えば“人脈がある”野球選手、“ITスキルのある”サッカー選手、“文才のある”テニス選手とか…。そうすると好きになってもらえるフックが増えますよね。そして引退後にも活かすことができるはずです」

ハンドボールをメジャーにするという目標を叶えるため、東さん自身、これからもさまざまなことに挑戦していく。


(プロフィール)
東俊介(あずま・しゅんすけ)
1975年9月生まれ、石川県出身。中学でハンドボールを始め、金沢市立工業高等学校、国際武道大学を経て、98年に大崎電気「OSAKIOSOL」に入団。同チーム、日本代表のキャプテンを務め、2009年に現役を引退。16年大崎電気を退社、同年、株式会社サーキュレーションに入社し、経営コンサルタントとして活動を開始。現在は「当たるんですマーケティング」取締役のほか、Tリーグ「琉球アスティーダ」取締役、日本財団「HEROs」プロジェクトアンバサダーなどを務める。

※データは2020年12月23日時点
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