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2020年12月16日18時00分

【元ハンドボール選手 東俊介さん】元アスリートが語るスポーツの仕事「やる」から「つくる」へ -Vol.30-(前編)

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「現役時代は“できるようになるまで努力する”が合言葉」
元ハンドボール選手、東俊介さんに話を聞きました


30回目 東俊介(あずま・しゅんすけ)さん/45歳
ハンドボール選手→会社役員(当たるんですマーケティング取締役など)

取材・文/斎藤寿子

「あいつぜんぜんダメじゃん」
本気スイッチを入れた同級生からの一言
ハンドボールの日本代表として活躍し、キャプテンを務めたこともある東俊介さん。しかし、子どもの頃は意外にも“運動音痴”だったという。

走ればいつも後ろから数える方が早く、野球をしてもバットにボールが当たらない。唯一得意としていたのは、ドッジボールだった。中学校の部活動では、そのドッジボールに似たハンドボール部に入部。ところが、最初の1年生だけが出場する市内の大会で準優勝。このことが、東さんのスポーツへの印象を変えるきっかけとなった。

「もともと身長が高く、小学6年生の時にはすでに170センチありました。それだけ体が大きかったのに運動が苦手で、よく友だちにからかわれていたんです。だからスポーツは好きではありませんでした。そんな僕が、ハンドボールで初めて褒められて、楽しいなと思うようになったんです」

高校は、県内屈指の強豪校である金沢市立工業高校へ。2、3年時にはレギュラーとして全国大会に出場。U-18日本代表にも選出され、いくつか強豪の大学からスカウトされた。

しかし家庭の事情もあり、それらの大学に進学することを断念。社会人チームのある企業に就職することを考えていた。そんな矢先、声をかけてきたのが国際武道大学だった。当時は大学リーグの二部で強豪とはいえなかったが、授業料免除の特待生として自分をスカウトしたいといわれ進学を決めた。

当時二部だった国際武道大学のハンドボール部にとって、東さんは抜きん出た存在だった。1年時からレギュラーとして活躍し、2年時には先輩たちと一緒に交じって東日本インカレで準優勝し、インカレにも出場。ベスト8という創部以来最高の成績を挙げた。3年時の夏からはキャプテンを務め、4年時に東さんの実力は高く評価され、いくつもの企業チームから誘いの声がかかった。

東さんが大学卒業後の進路を考えた時、一番にあったのは『強豪チームでプレーすること』。高校時代にU18日本代表に選出された際に生まれた“将来は本物の日本代表になって五輪に出場したい”という思いを叶えたいと考えていたからだ。

当時、社会人リーグで最強を誇っていたのは中村荷役。実は同チームに所属し、日本リーグでフィールド得点賞など数々のタイトルを獲得していた韓国出身の趙範衍(チョ・ボンヨン)選手が、大学を訪れるなどしてスカウティングに力を注いでくれていたこともあり、東さんの気持ちは固まっていた。
反骨心が決め手となった
最下位チームへの加入
大崎電気「OSAKIOSOL」に入団した東さん。Photo by Kenta Tazaki
一方、東さんをスカウトしていたチームは、ほかにもあった。その一つが、大崎電気工業。しかし、東さんは当時日本リーグの一部では最下位を争っているような同社には、まったく関心がなかったという。

そんなある日、当時大崎電気のコーチだった山本興道さんに食事に誘われた。元ソウル五輪日本代表でもある大先輩の誘いを断るわけにもいかず、食事に出かけた東さん。“一通り話だけを聞いて断ろう”と思っていた。ところが、別れ際に山本さんに言われた言葉が、東さんの人生を変える。

「中村荷役に行く決心は揺るがないか。じゃあ、行ったらいいよ。それで、チームの力で優勝すればいいさ。力がなくても日本一のチームに行けば優勝できる」

その瞬間、東さんは思わずこう言ってしまった。

「だったらオレの力で大崎電気を日本一にしてみせます!」

おそらく山本さんは、東さんの性格を知っていたのだろう。だからこそ、わざとけしかけるような言葉を投げたに違いない。しかし、この選択は吉と出た。その後、中村荷役は経営不振に陥り、東さんが社会人1年目のシーズン限りでハンドボール部は、廃部となったのだ。

当時の大崎電気は、常に二部リーグとの入れ替え戦を強いられるようなチームで、一部リーグではなかなか白星を挙げることができなかった。だが、練習の過酷さは半端ではなく、はじめはまったくついていけなかった。

ただ、高校時代にも似たような状況を経験していた東さんは『できないものは、できるようになるまで努力するしかない』と考え、耐え続けた。その甲斐あって、加入1年目のシーズン途中からは試合にも出るようになり、2年目は主力として活躍。

監督が代わった3年目は、まさにハンドボール漬けの生活を送った。平日は午後3時からチーム練習が始まり、遅い時には午後8時まで続いた。さらに休日も返上でトレーニングし、ときには筋膜炎で動けなくなるほどに自分たちを追いこんだ。だが、リーグ戦ではまったく勝てなかった。主力を温存し、新人ばかりを出してくる相手にさえも歯が立たず、シーズン中にわずか1勝を挙げることさえ容易ではなかった。

「3年間努力してこれなら、もう仕方がない。あと1年間だけ頑張ってみて、それでダメなら引退しよう」。そう決意して臨んだ4年目に他チームでプロだった選手の加入によってチーム強化が一気に進み、それ以降、大崎電気は年を重ねるごとに強くなっていった。
メンバー落選のショックから
救ってくれた先輩の涙
2003年1月には、初めて日本代表としてフランス遠征のメンバーに招集。地元フランスとの初戦、当時の世界チャンピオンだった相手からいきなり得点を挙げ、鮮烈な代表デビューを果たした。

04年には、日本国内で開催されたアテネ五輪の予選メンバーに選出。一度もコートに立つことはできなかったが、1988年ソウル大会以来の五輪出場に期待を寄せられていたチームを裏側でサポートした。アジア最強国の韓国に引き分けるなど、善戦したが、五輪への“トビラ”を開くことはできなかった。

同年、世界選手権のアジア予選に出場した東さんは、翌05年も本戦に向けてフランスで合宿が行われた最終選考に残っていた。最終日の練習試合で最多得点を挙げるなど、やり切った気持ちで合宿を終えた東さん。

しかし翌日の朝、落選の知らせが届いた。合宿に参加した18人中16人は世界選手権の地、チュニジアへ。そして、選考から漏れた東さんたち2人は、日本に帰国することになった。

落選を伝えられた直後、部屋に戻った東さんは先輩の羽賀太一さんに一緒にチュニジアには、行けないことを伝えると、羽賀さんは何も言わずに涙を流した。普段は何に対してもポジティブに考え、明るい先輩の姿しか見たことがなかった。そんな羽賀さんが、自分のために泣いてくれたことに、東さんは感謝の気持ちが募った。

「羽賀さんの涙を見たとき“自分にはやるべきことがある”と気が付きました」

メンバー18人が集合し、そこで初めて落選した2人の名前が明かされ、その場はシーンと静まり返った。すると、東さんはこうメッセージを贈った。

「誰か2人が落ちることは最初から決まっていたことで、僕は精一杯やってきたので何も後悔はありません。みんなはこれから世界の強豪たちと戦うことに気持ちを切り替えてください。僕は日本からみんなを応援しています」

そして、チュニジアに向かうチームメイトたちと別れ、東さんは日本へ帰国。翌日から次に向けて、練習を再開した。

「何かが足りないから落選した僕が、何もしなければ、世界選手権を経験する彼らとさらに差が開いてしまう。だから、すぐにスタートを切らなければいけないと考えたんです」

世界選手権を挟んで行われた2004-05シーズンの日本リーグで、大崎電気は初優勝。全日本実業団、国民体育大会とあわせて、三冠を達成。東さんにとっては、忘れられないシーズンとなった。


(プロフィール)
東俊介(あずま・しゅんすけ)
1975年9月生まれ、石川県出身。中学でハンドボールを始め、金沢市立工業高等学校、国際武道大学を経て、98年に大崎電気「OSAKIOSOL」に入団。同チーム、日本代表のキャプテンを務め、2009年に現役を引退。16年大崎電気を退社、同年、株式会社サーキュレーションに入社し、経営コンサルタントとして活動を開始。現在は「当たるんですマーケティング」取締役のほか、Tリーグ「琉球アスティーダ」取締役、日本財団「HEROs」プロジェクトアンバサダーなどを務める。

※データは2020年12月16日時点
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