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2020年8月4日17時27分

東京パラリンピックに臨む車いすバスケ国際審判員・二階堂俊介さんが語る。「審判員が目指す舞台」(前編)

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車いすバスケットボール国際審判員の二階堂俊介さんに話を聞きました


1年後に延期となった東京五輪・パラリンピック。その舞台を目指し、努力を積み重ねてきたのは選手だけではない。車いすバスケットボールの国際審判員・二階堂俊介さんも、その一人。国際車いすバスケットボール連盟(IWBF)の承認を受け、東京パラリンピックに派遣されることが決定している。二階堂さんが、車いすバスケの審判員を務めるようになったきっかけとは何だったのか。そして、国際審判員になるために必要なスキルとはどんなものなのか。話を聞いた。

取材・文/斎藤寿子
写真/斎藤寿子

「知りたい」から始まった
審判員への道
二階堂さんは、小学4年生の時にミニバスケットボールを始め、中学校、高校、大学とバスケットボール部に所属。高校2年生の時には、レギュラーとして活躍し、地元の福島県大会での優勝に貢献。ウインターカップの切符を獲得した。ただ、その県大会決勝でケガを負い、全国の舞台には立つことができず、悔しい思いをしたという。

大学卒業後は特別支援学校の教員を目指したが、当時は“就職氷河期”真っただ中。教員採用の道も狭き門だったため、2年間は福島県いわき市にある特別支援学校で講師を務めた。その後、1年間はイギリスに渡り、障がい者の自立支援プログラムのボランティアに参加。そして4年目、二階堂さんは晴れて採用試験をパスし、特別支援学校の教員となった。

最初に赴任したのは、肢体不自由の生徒が通う学校で、校内でのクラブ活動では車いす競技が盛んに行われていた。

その中で興味を抱いたのが、車いすバスケットボール(以下、車いすバスケ)。使用するコートやボール、ルールもほとんど同じだが、自身が経験してきたランニングバスケとは“似て非なる”スポーツでもあっただけに、『もっと知りたい』と思うようになる。

「大学の時から特別支援学校の教員になろうと思っていましたので、もちろん車いすバスケのことは知っていました。自分自身も、障がい者スポーツ指導員の資格を取得していましたので、基本的なルールなども知ってはいたんです。でも、直接的な関わりはなかったですし、ましてや競技としての世界はほとんど知らなかった。だから、もっと深く知りたいと感じました」

その後、車いすバスケの試合や日本代表の合宿があれば、体育館に行って見学。さらに興味がわき、“自分も何か携わりたいな”と思うようになる。そこで考えたのが、審判員だった。

「関わりたいと思っても、車いすバスケを指導することもできなければ、ましてや自分が車いすを操作してプレーすることもできないので、ほかに何かないかなと。そこで『審判員だったら、頑張れば自分もできるかもしれない』と思ったんです」
バスケ経験者でも
ゼロからのスタート
車いすバスケの審判員になるためには、まず各地域で行われる研修会を受け、座学を勉強することから始まる。ルールブックをもとに、さまざまなシーンの映像を見て、判定基準を覚えていく。そして、実際の試合による実技テストをクリアすると、各地区のブロック公認のワッペンが支給される。それが、審判員としての第一歩だ。

ブロック内での練習試合や大会で経験を積み重ね、指導を受けながら審判員としてのスキルを磨いていく。そして、次に目指すのは日本公認のワッペンだ。年に二回ある日本公認の審判員になるための試験を受ける。ルールテストとフィットネステスト、そして試合による実技テストをパスすると、日本公認を取得することができる。日本公認取得の審判員は、各ブロックの審判員長からの推薦を受け、日本選手権(2018年より「天皇杯」を下賜)など、全国クラスの大会に派遣されるチャンスが出てくるのだ。

だが、全国大会にたどり着くのは、そう簡単なことではない。もともとバスケ部出身の二階堂さんも、日本選手権に派遣されるようになるのには、5~6年を要したという。

「いやぁ、大変でした。もう、ほとんどゼロに近いところからの勉強でした。何より難しかったのは、車いす同士の接触に対しての判断。これは健常のバスケにはないことですし、自分自身も車いすを使っていないので、どんな動きをするか予測することが、とても難しいんです。その中で、どういうコンタクトプレーはOKで、どういうことがファウルになるのか…。例えば、車いすの車輪の向き一つで、判定は分かれるんです。審判として、判断の基準となる“接触の原則”を習得するのは、とても難しかったですね」

練習試合などで何度も経験を積み重ね、そのたびに先輩の指導員からアドバイスを受けることで、二階堂さんは様々なケースに対応できる術を磨き続けた。

「最初のうちは、もうコートに出たとたんに、頭が真っ白になっていました(笑)。わけがわからないまま試合が進んでいって…。笛を吹くべきところで吹かずに、指導員から注意を受けましたし、笛を吹いたら今度はヒートアップした選手から不満の声が…。思っていた以上に厳しい世界で、毎試合のように“へこんで”いましたね」

そんな時、厳しくも温かい言葉をかけてくれたのが、同じ地元の先輩でもあり恩師でもある菅野英輔さんだった。菅野さんは、2004年アテネから2016年リオまで、4大会連続でパラリンピックに派遣された重鎮。日本車いすバスケットボール連盟(JWBF)の審判部長を務め、後進の指導・育成にも尽力している。二階堂さんも菅野さんの指導を受け、審判員としての極意を学んできた。

「菅野さんがいつもおっしゃっていたのは『審判員は言われてなんぼだぞ』と。いろいろと言ってもらえるから学ぶことも多いし、そこで考えることが必要だということを教えていただきました。もちろん、菅野さんにも試合の度に『ああいう時は、こういう判断をしなければいけない』とフィードバックしていただき、いつも励まされていたんです」

地元の東北ブロックの試合で経験を重ね、そのスキルが認められた二階堂さんは、2014年から全国大会に派遣されるようになった。さらに、2017年からは海外の国際大会の審判員も務めている。国内大会は週末がほとんどだが、海外の国際大会となると7~10日間と長期間に及ぶ。仕事との両立はどうしているのだろうか。

「国際大会で海外に行く時には、年休を取っていくのですが、いずれにしても長期間留守にしてしまうので、職場の方たちの協力が欠かせません。ですので、迷惑をかけてしまう分、普段は率先して仕事をしようと心掛けています。それと、職場が特別支援学校ということもあるので、自分が審判員をしていて得られたことをお伝えしたり、あるいは競技用車いすを借りてきて、学校で紹介したりして、自分の活動が少しでも職場に還元できるように努めています。審判員として活動できるのは、職場の皆さんの理解があってこそです」(前編終わり)


(プロフィール)
二階堂俊介(にかいどう・しゅんすけ)
1976年11月生まれ、福島県出身。順天堂大学スポーツ健康科学部卒業後、2年間は福島県いわき市の特別支援学校に講師として勤務。その後イギリスに渡り、1年間障がい者の自立支援のボランティア活動に携わった。帰国後、福島県内の特別支援学校の教員となる。現在は、福島県立大笹生支援学校高等部で学部主事を務める。教員の傍ら、車いすバスケットボールの国際審判員として活動。2021年東京パラリンピックへの派遣が決定している。

※データは2020年8月4日時点
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