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2019年9月24日15時47分

【元ラグビー選手 大西将太郎さん】元アスリートが語るスポーツの仕事「やる」から「つくる」へVol.20‐(後編)

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「引退決意の理由は母国開催のワールドカップでした」
元ラグビー選手、大西将太郎さんに話を聞きました


〜第20回目〜
大西将太郎(おおにし・しょうたろう)さん/40歳
ラグビー選手→解説、イベント出演

取材・文/斎藤寿子

前編はこちら
プロとしての覚悟と最大の挫折
2000年、大学4年の時にラグビー日本代表に選出された大西将太郎さん。当時、代表のヘッドコーチは、大西さんが小学生の頃から憧れ続けてきた平尾誠二氏だった。

その平尾氏に、大学卒業後の進路先として同じ神戸製鋼への道を薦められた。しかし、人と同じことを嫌う性格の大西さんは、周囲が驚く選択をした。

「当時の神戸製鋼は日本選手権で勝ち続けていました。それも憧れの平尾さんに誘われたわけですから、誰もがみんな、僕が神戸製鋼に入ると思っていたはずです。でも僕は、強くて完成しているチームよりも発展途上だけれど、これから強くなろうとしているようなチームに入って、王者の神戸製鋼に勝利するほうが面白いだろうと考えたんです」

そしてもう一つ、大西さんは当時まだ少なかったプロとしての道を模索していた。もちろん正社員で入社すれば、ラグビーを続けながらも生活は安泰する。引退後にも不安はない。しかし“ラグビーも仕事も中途半端になってしまう”と考え、ラグビーに専念できる環境を求めていた。

「人生を考えるうえで、当時プロになるというのは、とても大きな決断でした。でもラグビーを全力で頑張れば、引退後にも通じる力を培うことができると思っていたので、プロとしてラグビー専念する道を選択しました」

企業によっては、まだプロを一人も認めないチームもある中、大西さんをプロとして迎えたのは、関西を代表とするワールドだった。

そして2年目の02年、関西社会人リーグでの優勝決定戦、大西さん擁するワールドは神戸製鋼を破って優勝に輝いた。試合中に脳震盪を起こして、後半途中でベンチに下がり、意識が朦朧(もうろう)としていたが、チームが勝った瞬間、意識が明確となり嬉し涙を流したという。

当時は日本代表にも選ばれ、プレーヤーとしては順調な道のりを歩んでいた。しかし、その年に日本代表を外れた大西さんは、24歳で迎えた03年のワールドカップには出場することができなかった。同世代の選手たちが世界最高峰のステージに挑む中、テレビで観戦するしかない自分が情けなく“いったいオレは何をしているんだろう…”と悔しさが募った。だが、今振り返るとその時の“挫折”が自らを強くしてくれたと考えている。

「“今のままではダメだな”と、本気で思いました。代表を落とされたのは、やっぱり慢心な気持ちがあって、プレーも緩慢で精細さに欠けていたのだと…。もっとうまくなって“ワールドカップに出場したい”という気持ちが、自分を成長させてくれました」
チームメイトの思いを背負い
挑んだワールドカップデビュー戦
2007年フランスワールドカップに出場。カナダ戦で同点のゴールキックを決め、日本のワールドカップでの連敗を13で止めた
とはいえ、すぐに代表に復帰できたわけではなかった。再び桜のジャージを着るまでには、4年を要した。その間、決して腐ることなく、一時期はオーストラリアに留学をするなどして、自分自身を磨き続けていた。

「正直、諦めかけたこともありましたが、それでもやっぱり自分が目指すゴールはワールドカップだったので、最後まで諦めずに挑戦しました」

06年、ついにチャンスが訪れた。当時、日本代表にはフランス人のジャン・ピエール・エリサルドヘッドコーチ(以下、HC)が就任し、07年のワールドカップを目指していた時期だった。

「ピエールHCは、そのシーズンのトップリーグ第5節までのパフォーマンスを見て、代表を決めると宣言していました。なので、頑張っていいパフォーマンスをしたら、もしかしたら自分も選出される可能性があるかもしれないと思っていました」

実際、高いパフォーマンスでアピールし続けた大西さんを指揮官はしっかりと見ており、久々に代表メンバーに名を連ねた。これで念願のワールドカップ出場が現実的になったと思ったのも束の間、思いがけない出来事が起こった。ピエールHCの多重契約が発覚し、06年9月に解雇されたのだ。

その後、一時的な代理として太田治HCが就任すると、再び代表の座を外されてしまった。悔しい思いの中、最終メンバーの親善試合をテレビで観ていた時、ある選手がケガで退場を余儀なくされた。それは同じポジションの選手だった。

すると試合後、一本の電話がかかってきた。代表への招集だった。ケガをした選手には悪いと思ったが、やはり嬉しかった。そして、その後にジョン・カーワンHCが就任すると“タックルもいいし、ハートの熱いプレーをするプレーヤー”という高評価を得て、大西さんは主力として起用されるようになっていった。

そして、07年9月、フランスワールドカップが開幕。ついに大西さんは憧れ続けてきた世界最高峰のステージに上がった。当時28歳。酸いも甘いも経験し、フィジカル的にも最も脂ののった状態だった。

結果は0勝3敗1分けで予選敗退。しかし、最後のカナダ戦では大西さんが試合終了間際、後半のロスタイムでプレッシャーをはねのけて同点のゴールキックを決め、日本のワールドカップでの連敗を13で止め、そのプレーに称賛の声が吹き荒れた。
ラグビー界に恩返しをする
ラグビーの認知・普及・発展のため尽力していくと話す大西さん
その後、大西さんはヤマハ発動機、近鉄、豊田自動織機でプレーし、16年のシーズンを最後に現役を引退。その数年間はワールドカップで感じた刺激を追い求める旅でもあった。

「実際にワールドドカップに出てみて、言葉ではとても表現できないほどの感動を覚えました。やはり、僕らラガーマンにとっては“特別な場所”。どんなに頑張っても、たとえ代表に選ばれていても、最後の最後にケガで出られない選手もいる。でも、僕は運のいいことにそのステージに立つことができた。今でもあの時の感動は忘れることができません」

しかし、ワールドカップ以上の“特別な場所”は見つからなかった。豊田自動織機シャトルズに在籍した最後のシーズンは、コーチを兼任。なかなか出場機会を与えられないことに悔しさを感じながらも、相次ぐケガで満身創痍の体が思うように動かないことにいら立ちを覚える日々が続いていたという。チームからは指導者として求められる割合の方が大きく、そんな自分の立場を客観的に考えた時に“今がタイミングなのかな”と引退を決意した。

引退後は、母校の同志社大学や立命館大学でコーチを経験。現在は、テレビの解説やラグビーの普及・発展のための活動に従事している。そして今、大西さんはラグビーから与えられたことの大きさを改めて感じることが多いという。

「僕は今、ラグビー以外のいろいろなことを学ぶ機会が多くあって、すごく充実した毎日を送っていますし、やれることも広がってきているなと。でも、それはラグビーから学んだ素地があるからだと思うんです。だから何かを一生懸命やることで生まれる力というのは絶対にあって、特に子どもたちには何かに夢中になることの素晴らしさや価値を知ってもらいたい。そして、一人でも多くの人にラグビーというスポーツを知ってもらい、その価値を広げたいです」

大西さんはその想いを形にするために、さまざまな活動に注力している。その一つが、9月20日に開幕を迎えたワールドカップ。

「現役引退を決意した理由の一つには、ワールドカップの日本開催が決まったこともありました。もちろんプレーヤーとして出たいという気持ちもありましたが、それが叶わないとなった時に“これからの選手のために少しでも良い環境を整えていきたい”という気持ちが芽生えました」

大会が成功し、レガシーが創出され、ラグビーの認知・普及・発展が進むことで、次世代を担う子どもたちにラグビーの価値を継承していきたいと考えている。生涯ラグビーとともに、キャリアを歩むことを決めた大西さん。その決意が揺らぐことはない。


(プロフィール)
大西将太郎(おおにし・しょうたろう)さん
1978年11月生まれ、大阪府出身。地元東大阪市の布施ラグビースクールでラグビーを始め、啓光学園高校3年生の時に全国高校大会準優勝。同志社大学に入学し、4年生の時に日本代表に。以後、2008年のサモア戦まで通算33試合に出場。2016年現役引退。現在は、JSPORTSやWOWOWのラグビー解説者として、また、ラグビーの普及活動のため全国をまわっている。

※データは2019年9月24日時点
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