Home > 特集・連載 > 【元ラグビー選手 大西将太郎さん】元アスリートが語るスポーツの仕事「やる」から「つくる」へVol.20‐(前編)

2019年9月19日16時55分

【元ラグビー選手 大西将太郎さん】元アスリートが語るスポーツの仕事「やる」から「つくる」へVol.20‐(前編)

  • LINEで送る
「ラグビー人生を後押ししてくれたのは母の言葉でした」
元ラグビー選手、大西将太郎さんに話を聞きました


〜第20回目〜
大西将太郎(おおにし・しょうたろう)さん/40歳
ラグビー選手→解説、イベント出演

取材・文/斎藤寿子

平尾誠二氏に憧れて
ラガーマンの道へ
高校ラグビーの聖地『花園ラグビー場』があり、“ラグビーの街”として知られる大阪府東大阪市で生まれ育った大西将太郎さん。幼少時代から自然と触れる機会のあったラグビーは、ものごころついた時から身近に感じていたスポーツだった。だが、最初から生粋の“ラグビー少年”ではなかったという。

「小学生の時は、いろいろなスポーツをやっていたんです。サッカー、バスケットボール、ソフトボール、バレーボール、水泳、卓球、そしてラグビーと、曜日ごとに7つのスポーツクラブに通っていました」

小学5年生になると、サッカー、ソフトボール、ラグビーの3種目に絞り、さらに”この3つのうち、本当にやりたいのはどれなのか決めなさい”と両親にいわれ、選んだのがラグビーだった。

「実は、その前から自分の性に一番合っているのは、ラグビーだと思っていました。というのも、バスケットボールでもサッカーでも、僕のプレーは荒すぎて、すぐにファウルを取られてしまう。だから退場になって試合の最後までプレーすることができなかったんです(笑)。でも、ラグビーはタックルしてもOKですから、いつも最後までグラウンドでプレーできていたので楽しかった。それと、やっぱり大きかったのは、当時日本代表として活躍されていた平尾誠二さんの存在。彼に憧れていたので、自分はラグビーで頑張ろうと思ったんです」

今も両親に感謝しているのは、いろいろなスポーツを経験できたからこそ、培った力がラグビーで活かされたこと。そして、自分自身で決める機会を与えてもらったことで、どんなに苦しくても“自分でやると決めたのだから”と、踏ん張る強い精神力を持つことができたことだ。
順風満帆ではなかった
ラグビー人生
一時はラグビーを諦める覚悟もした大西さん。母親からの一言に背中を押された
”ラグビー一本に絞る”と決めた後、少年の大西さんは人生のプランを立てた。目指していたのは、もちろん憧れの平尾氏のような選手になること。そのため、早々と進路も決めており、平尾氏と同じ同志社大学への進学を考えていた。

そこで、中学校から同志社の附属に入ろうと、同志社香里中学校の入試を受けた。しかし、残念ながら不合格。滑り止めで受けて合格したのが、後にラグビーの名門校として全国に名が知られていく常翔啓光学園中学校だった。

「当時、常翔啓光学園は大阪府内では強くて全国大会にも出ていたのですが、まだ花園の常連というわけではなかったですし、全国では今ほど有名ではありませんでした。でも、小学生のころに通っていたラグビースクールのコーチが『あそこはこれから強くなるよ』と薦めてくれていたんです」

入学早々、すぐにレギュラーに抜擢され、このまま順風満帆なラグビー人生が続くと思われた。そんな矢先、大西さんが中学1年生の時に父親が他界。

【こんな時にラグビーを続けていいのだろうか…】

一時はラグビーを諦める覚悟もしたが、母親からの一言に背中を押された。

「地元から離れた私立に通う中学生なんて、ほとんどいなかった時代。お金もかかるのはわかっていましたし、どうすべきか悩んでいました。そしたら、母が“一度決めたことなのだから、最後までやり続けなさい”と。その一言で『よし!頂点を目指して頑張ろう』と心に決めました」

さらに中学1年の時の冬には、いつも同じグラウンドで練習している啓光学園高等学校のラグビー部が全国大会で初優勝したことも、ラグビーへの情熱が高まる要因となっていた。

「初優勝の瞬間は、花園のスタンドで見ていたのですが、すごく感動しました。いつも同じ校舎に通って、同じグラウンドにいる高校生たちがまぶしく見えました。全国覇者が身近にいることで、目標がより具体的にイメージできるようになった。自分にとっては、それがすごく大きかったです」

高校でも1年生からすぐに試合で使われる存在として活躍したが、花園ではベンチを温め、プレーの機会を得ることはできなかった。チームもベスト8止まりという不甲斐ない結果に終わった。2年になるとレギュラーとして活躍したものの、結局一度も優勝することができず、高校ラグビー生活の幕を閉じた。そして“全国制覇”は、そのまま大学ラグビーでの目標となった。
忘れられない敗戦は
大学4年生の大学選手権
志望校は、小学生の時と変わらず同志社大学だったが、コーチからは“法政大学か帝京大学がいいんじゃないか?”と薦められていた。しかし、それでも気持ちがブレることはなく、進路の志望欄の一番上には『同志社大学』という文字を記した。

すると、その思いが通じたのか、3年の春にあった大阪府選抜のセレクションに視察に訪れていた同志社大学の名将、岡仁詩監督(当時)から直々に“平尾以来の欲しい選手だ”といわれ、推薦してもらえることになった。

1997年、同志社大学ラグビー部に入部。小学生の時から憧れていた平尾氏と同じ紺色とグレーのボーダーのユニフォームに袖を通した。だが、入部1週間で一軍メンバー入りを果たしたことで“心の緩み”が生じたという。

「憧れの大学に入り、すぐにレギュラーになったことで、10代の僕はそれで満足していたところがありました」

そんな時、厳しい現実を突きつけられる出来事が起きた。関西の雄として常に全国の舞台で関東の大学と優勝を争う存在であったはずの同志社大学は、大西さんが1年の時には関西リーグで5位に転落し、全国大学選手権に出場することさえできなかったのだ。

「翌年も勝てませんでした。それまでは関西で勝つのは当たり前と高をくくっていた部分があったと思いますが、2年連続で負けたことで目が覚めたという感じでした。『同志社はこんなものではないはず。もう一度、プライドを取り戻そう!』とチームで話し、練習方法も変えていきました。でも、一番大きかったのは、みんなの意識が変わったこと。練習への姿勢から違いましたね」

翌年、3年生の時には関西リーグで3年ぶりに優勝。大西さんにとって初めての全国大学選手権は、ベスト4進出という結果だった。準決勝では満員の国立競技場で、往年のライバル慶應義塾大学と対戦。前半はリードして折り返したが、後半に逆転を許して敗れた。

その悔しさを晴らそうと、翌年、最後の大学選手権へ。優秀なメンバーがそろっていたその年、キャプテンを務めた大西さんは“必ず優勝できる”と信じて疑わなかった。周囲からの期待の声も大きく、優勝候補の筆頭にあげられていた。しかし、またしても準決勝敗退。同じようにして逆転負けという悔しい結果となり、全国の頂点に立つことはできなかった。

「最後の敗戦は、キャプテンである自分の責任だと思いました。いつもは次に活かすために、試合をビデオで振り返るのですが、大学4年生の準決勝だけは、今まで一度も見ていません。僕のラグビー人生の中で、最も悔しいと思ったのは、ダントツでこの試合です」

責任の重大さを感じていた大西さんは、京都に戻った後、チームメイトが次々とお正月休みに実家へと戻っていく中、選手寮にひきこもった。そんな彼を救ってくれたのは、やはり母親だった。

中学1年の時に父親を亡くして以来、離れて暮らしてはいたが、母と息子との絆は強く結ばれていた。“自分のラグビー人生は母あってこそ”と語るほど、母親の存在は欠かすことはできない。

「試合の前になると、母はいつも自宅近くの神社にお参りに行ってくれていました。『お参り済ませたからね』→『ありがとう!』というメールのやりとりが、親子のルーティンだったんです」

その母親から寮にいる大西さんの元に電話がかかってきた。“大丈夫?とにかく一度家に戻って、ご飯を食べなさい”。その言葉で、ようやく地元に戻ることができた。(前編終わり)


(プロフィール)
大西将太郎(おおにし・しょうたろう)さん
1978年11月生まれ、大阪府出身。地元東大阪市の布施ラグビースクールでラグビーを始め、啓光学園高校3年生の時に全国高校大会準優勝。同志社大学に入学し、4年生の時に日本代表に。以後、2008年のサモア戦まで通算33試合に出場。2016年現役引退。現在は、JSPORTSやWOWOWのラグビー解説者として、また、ラグビーの普及活動のため全国をまわっている。

※データは2019年9月19日時点
  • LINEで送る
  • sports japan GATHER キャリア支援サービス