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2018年11月22日18時05分

「競技に集中できる環境に惹かれ“アスリートナビゲーター”として働き始めました」アスリートのデュアルキャリア アメリカンフットボール選手 三宅剛司さん(前編)

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アメリカンフットボール選手、三宅剛司さんに話を聞いた
現役のアスリートとして競技を続けながら、仕事やプライベートを両立させていくためには、どのようなことが大切で、どのようなことで苦労しているのか。「デュアルキャリア」を体現している現役アスリートに、仕事と競技を両立するための秘訣を聞く。

今回は、アメリカンフットボール(以下、アメフト)選手として活躍しながら、スーパースポーツゼビオドームつくば学園東大通り店(茨城県)で、スポーツナビゲーターとして働く三宅剛司さんに話を伺った。

取材・文/佐藤主祥
アメフトへの競技転向で手にした「日本一」という夢
幼稚園から中学生までは、アメフトリカンフットボール(以下、アメフト)ではなくサッカーに打ち込んでいた三宅さん。兄の影響で物心がつくころからボールを蹴っており、高校でもサッカー部に入るつもりでいた。その背中を追いかけ、高校も兄と同じ大阪産業大学附属高等学校(大阪市)に進学。三宅さんは何の躊躇もなく、同校のサッカー部に入部届けを提出しようとした。だがそんなとき、兄からこんな情報が入った。

『この高校で日本一を狙うなら、アメフト部がおもしろそうやぞ』

中学時代にはトップレベルに駆け上がるため、ガンバ大阪ユースの練習に参加したが、セレクションは不合格。もちろん、並大抵の実力で入れるとは思っていなかったが、予想以上に周りにいた選手とのレベルの差を感じてしまい『他のスポーツに転向しようかな…』と、サッカーを続けるかどうか迷いが生じていた。その時の兄の言葉により、三宅さんの競技人生はアメフトに変わった。

高校1年時はランニングバック(RB)、 2年時から現在までは一貫してディフェンスバック(DB)のポジションでプレー。サッカー出身だったため、はじめはフィールドゴールを蹴るキッカー(K)を務めることもあった。

日本においてアメフトは、部活がある中学校・高校が少なく、基本的には大学から始めるスポーツとなっていて、他競技から転校してくる選手が大半。だからこそ“競技経験がなくても入りやすい”というメリットも三宅さんにとって、競技転向しやすかった理由の一つとなった。

「アメフトには野球、サッカー、バスケット、陸上など、いろんな競技経験者が集まっています。ボールを投げたり、捕ったりするなら野球やバスケット選手、僕みたいにサッカーでディフェンスをやっていた場合は、走って相手を止めるポジションについたりします。どんな競技からでも、その経験や要素を活かせるので、アメフトは初心者でも始めやすいスポーツなんです」

それからアメフトに打ち込んでいった三宅さんは、先輩にトップレベルの選手が揃っていたということもあり、高校では1999年からクリスマスボウル3連覇を経験。高校2年時からレギュラーとなり、チームを引っ張る存在になった。当時の大阪産業大学附属高等学校は、他チームを寄せ付けない強さを誇っていた。

高校卒業後、2002年からアメフトの強豪校である立命館大学に進学。大学1年時からベンチ入りし、翌年からスタメンで出場した。高校時代の先輩が同大学に進学していたこともあり、4年連続で甲子園ボウルに出場し、1〜3年まで3年連続で大学日本一。 1、2年時は社会人チャンピオンと戦うライスボウルも制覇し、2年連続で日本一に輝いた。

高校・大学で頂点を極めた三宅さん。サッカーでは成し遂げられなかった“日本一”という夢を、アメフトにフィールドを移し、見事に叶えた。
競技を続けるために選んだ“アスリートナビゲーター”
2013年にゼビオに入社した三宅さん。スーパースポーツゼビオドームつくば学園東大通り店で働いている
大学卒業後は、2006年から新卒で銀行員となった三宅さん。会社に通いながら、兵庫県尼崎市を本拠地とする社会人チーム『アサヒ飲料チャレンジャーズ』でプレーをした。それから1年が過ぎた2007年、世界選手権の日本代表に選ばれ、初めて日の丸を背負って戦った。だが、日本は決勝まで勝ち進んだものの、米国代表に延長戦の末に20-23で敗北。接戦ではあったが、点差以上に圧倒的な実力差を実感した。

「米国本土にはもっとすごい選手がいるんだと、そのとき肌で感じましたね」

世界を経験した三宅さんは、さらなる成長を図るため、かねてから熱望していたという海外挑戦を決断。勤めていた銀行を退社し、アリーナフットボールリーグ2(AFL2)に参戦。ただ、日本と米国ではシーズン期間が異なるため、国内にいるときの所属チームに、千葉県習志野市を拠点とする強豪「オービックシーガルズ」を選択。2007年は契約が間に合わなかったことから練習生として参加し、2008年から登録選手としてプレーした。

しかし、三宅さんの海外挑戦は、1年後に突然終わってしまう。2009年にリーグ自体が破産に追い込まれ、解散してしまったからだ(2010年に再開)。ただそれでも、米国でプレーしたこの1年間は、その後のアスリート人生において大きな「財産」になったという。

「AFL2はNFLのようなトップチームではないので、選手としてだけでは食べていくことはできず、他に仕事をしながらプレーしていた選手がほとんどでした。しかも日本と違うところは、多くの選手が一般の企業ではなく、アメフトに関る仕事をしていたんです。指導者であったり、競技の普及活動であったり、自身の経験を活かせる場所を選択していました。

誰もがNFLでプレーしたいし、アメフトをやり続けたい。ただ、そんな強い思いを抱いても、怪我がきっかけで引退したり、経済的な理由でプレーできなくなることだってあります。ですが、仕事でもアメフトに関わることによって、違う形で“スポーツ人生”を続けることができる。AFLの選手たちを見て、スポーツに携わる在り方というか、アスリートとして人生を歩むうえで大切なことを学びました」

そんな海外での経験から、引き続きオービックシーガルズでプレーしながらコーチ業も始めた三宅さん。平日は母校の立命館大学や桃山学院大学でコーチをし、週末にチーム練習やリーグ戦に参加。教えていた大学がいずれも関西だったため、関東〜関西を行き来する生活が続いた。

そして2013年、チームのコーチから紹介され、ゼビオの就職面接を受けた。同社はもともと『アスリートナビゲーター(※正社員として働きながら競技に打ち込める、アスリートのための制度)』を採用しており、オービックシーガルズのチームメイトも先にアスリートナビゲーターとして入社していた。

スポーツに携わる企業として、競技活動をサポートしながら、そこで得た知識や経験、スキルを社業に生かすことでアスリートの社会人としてのキャリア形成を実現。アメフトの他にも、サッカーや陸上、カヌーやセパタクローといった幅広い競技の選手が活躍。当時、30歳を迎える三宅さんにとって、この制度は魅力的だった。

「引退を考え始める年齢にさしかかっていましたし、この先もずっとアメフトを続けられる道を模索していたので、ゼビオで働くことを決めました」

プロリーグがない日本のアメフト選手にとって『デュアルキャリア』を体現することは当たり前。よって、競技と仕事を両立するためには働く環境が重要となってくる。その中で、アスリートナビゲーターという“競技に集中でき、キャリアを形成できる働き方”と出会うことができた三宅さん。米国での経験や学びを胸に、新たなアメフト人生を歩み始めた。(前編終わり)

三宅さん記事後編
(プロフィール)
三宅剛司(みやけ・たけし)
1983年7月12日生まれ、大阪府出身。1999年、大阪産業大学附属高等学校でアメリカンフットボールを始める。2002年に立命館大学に入学し、4年連続で甲子園ボウルに出場し、1年から3年まで(2002,03,04年)3年連続で勝利し大学日本一に。卒業後、2006年にアサヒ飲料チャレンジャーズでプレー。 2007年オービックシーガルズに練習生として参加し、2008年選手登録。2013年に、ゼビオグループのゼビオナビゲーターズネットワークに入社し、アスリートナビゲーターとして大型スポーツ専門店スーパースポーツゼビオにて勤務。現在は、仕事と競技を両立して行う。

※データは2018年11月22日時点
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