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2016年8月5日13時57分

酔いどれDの妄想一献“スポーツのある風景” 第6話『青畳の美学 柔道とJUDO』(後編)

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60キロ級越野忠則が我がことのように走り出す
1992年バルセロナ五輪。大けがを負いながら金メダルを獲得した柔道・古賀稔彦。写真・朝日新聞社/Getty Images
1992年7月20日に古賀が左足を負傷、25日に開会式を迎える。柔道競技は95キロ超級の小川直也を先陣に重いクラスから始まった。

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30日には、78キロ級・吉田秀彦。あの日から、吉田の眉間には縦皺が深く刻まれたまま。しかし、その苦悩を見事にチカラに変えた。切れ味鋭い内股を武器に全試合一本勝ちで優勝。悲壮感を背に、一瞬で相手を裏返す吉田の鮮やかな内股は“青畳をキャンバスにした垂直の芸術”だった。

そして翌日、71キロ級。痛み止めを何本も打ち鬼気迫る表情で古賀稔彦が青畳に登った。眼差しから、腹を括った男の潔さが伝わってくる。金メダルへのライバルと目されていたのは、90年のアジア大会で苦汁を飲まされた韓国の鄭勲。

ヤグラ(組合せ表)では反対側のヤマ、決勝まで当たらない。初戦から怪我の影響を感じさせない古賀。順調に勝ち進み、準決勝ではステファン・ドット(ドイツ)を青畳から一気に引き抜く様な一本背負いで投げ捨てた。

そして準決勝のもう一試合。最大のライバル鄭勲がハイトシュ・べルタラン(ハンガリー)に敗れた。その時、2階観客席から出口へと駆けて行くJAPANのジャージを着た小柄な男を見つけた。2日後に試合がある60キロ級代表・越野忠則だった。私はその背中に叫ぶように呼びかけた。「越野さん!」すると越野は振り返り「これで大丈夫!大丈夫!」と答え走り去った。40時間もすれば、自らの試合があるのに試合会場の2階席で古賀の戦いを見守っていたのだ。

-そして今や五輪史上に残る名場面となった古賀とハイトシュの決勝戦‐

試合は旗判定となり勝利の女神は古賀に微笑んだ。日本の取材陣の熱い思いを抱いて、ふわりと<青と深い赤の宮殿>パラウ・ブラウグラナの天井から夜空に溶けていったように感じた。

講堂学舎で古賀と吉田を指導して来た、コーチの吉村和郎と吉田は客席で抱き合い号泣。その姿に胸が熱くなった。地中海の青畳の前で皆、純粋に燃え尽きた瞬間だった。文字通り、傷だらけの栄冠。ドーピングを終え共同記者会見場に向かう古賀の周りに十重二十重と人の輪が出来た。

その一番外側に鮮やかなグリーンのジャケット姿の紳士がいた。五輪キャスターとして取材に来ていた長嶋茂雄。長嶋は古賀に近付くでもなく、巨大な重圧と、絶体絶命の危機を跳ね除けたニッポンの主将の背中を、唯、静かに見つめていた。
小川直也の前に立つ4人の大男
8月2日、柔道競技最終日。60キロ級の越野は3位決定戦で内股を決め銅メダル。一本を奪った瞬間、越野は「メダル獲得という最低のノルマを果たしました」とでも訴える様に、ベンチを見て両腕を拡げて見せた。そして女子48キロ級の田村は決勝まで勝ち上がったものの、決勝では一瞬の不覚でセシル・ノヴァク(フランス)に敗れた。試合が終わり、表彰式も終え、共同記者会見、それでも悔し涙は晴れなかった。

そしてもうひとつ、忘れられない“美しい柔道の光景”が、心に焼き付いている。それは最重量級、小川直也の試合前日、本番前の最後の稽古。いよいよ明日出陣という小川の前に4人の大男が立った。この時の男子監督、上村春樹(76年モントリオール五輪・無差別級金メダリスト)。コーチ山下泰祐(84年ロサンゼルス五輪・無差別級金メダリスト)。同じくコーチ斎藤仁(84年ロサンゼルス五輪、88年ソウル五輪金メダリスト)。そしてもう一人のコーチ、山下泰祐、斎藤仁らと全日本王座を競った松井勲の4人。

小川の前に並んだ日本柔道が誇る重量級4人の勇者。上村が、山下が、そして斎藤、松井が。両手を広げ「さぁ、投げろ」と小川に次々と体を預ける。小川はひとり、またひとりと投げて行く。4人は投げられては、立ち上がり、両手を広げ、また体を預ける。

バーン、バーンと心地良い受け身の音が、“青畳もどき”の道場に響く。ただ黙々と先輩を投げる小川。ただ黙々と投げられる、上村、山下、斎藤、松井。再び、上村、山下、斎藤、松井。投げられ役に徹する4人の勇者からの、声なき声が、私にも聞こえて来た。“俺たちを、こんな簡単に投げたのだ。そんなお前が明日、負けるはずがない”日本から遥か遠い地中海の街で見た、柔道の美しい瞬間だった。
2020年東京五輪
青畳の上で新しき世代の活躍を願う
2020年柔道会場となる日本武道館。青畳の上でどのような選手が活躍するのだろうか
その後“柔道”は、道着も青畳も色鮮やかなカラー化が進み、2000年シドニー五輪では技を知らない審判の明らかな誤審で篠原信一は金メダルをダビド・ドゥイエ(フランス)奪われた。五輪競技の宿命でもある国際化を受け入れながら柔道は“JUDO”へと姿を変えざるを得なかった。

あの時の日本代表は‐‐‐

吉田は戦いの場を青畳からリングへと変え未知なる格闘技へ踏み出したが、現在はパーク24柔道部の監督として後進を指導

田村は谷となり政界へと棲家を変えた

越野は国際武道大学の監督として次世代を育てる役割を担っている

12年ロンドン五輪、日本男子は五輪史上初めて金メダルゼロに終わった。15年1月20日、ロス・ソウルで五輪2連覇を達成、鈴木佳治、石井慧のふたりの金メダリストを育てた斎藤仁は、54歳の若さで、この世を去った。

16年、リオデジャネイロ五輪。山下泰祐の愛弟子、井上康生は男子代表監督として捲土重来を期す。更に次の世代として、古賀稔彦の息子ふたり、颯人(はやと)・玄暉(げんき)は高校柔道界に新風を起こしている。小川直也の息子、雄勢(ゆうせい)はグランドスラム大会で戦う日本代表選手に成長。弟・剛生(ごうき)も柔道を始めたらしい。

64年東京五輪。初めて五輪競技に採用された柔道は無差別級で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れるという落胆から始まった。あの時、柔道会場の日本武道館に敷かれていた青畳は、日本古来の畳表、シチトウ(七島藺)を用いたものだったという。

2020年の東京五輪では是非、試合会場は青畳で、日本古来のシチトウの畳表を敷き詰めて欲しい。その青畳の上で新しき世代が必ずニッポン柔道の姿を、世界に示してくれるはず。古賀、小川のふたりの息子たち、あるいは越野が育てた選手が日本代表となって。

そして、きっと出陣前の最後の稽古の時、古賀も、小川も、そして越野も、大きく両手を広げて、頼もしき武士(もののふ)に体を預け、投げ飛ばされる。「俺をこんな簡単に投げたのだから、お前は負けるはずがない」と信じながら。スポーツには言葉を越えたチカラがある。
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