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2016年8月2日17時08分

酔いどれDの妄想一献“スポーツのある風景” 第6話『青畳の美学 柔道とJUDO』(前編)

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1992年バルセロナ五輪。大けがを負いながら金メダルを獲得した柔道・古賀稔彦。写真・朝日新聞社/Getty Images
スポーツ業界で働き、酸いも甘いも知り尽くすベテラン・テレビディレクターが、6割事実4割が妄想!?の『スポーツ界こんな話あったんだ!』というネタを、今宵の一杯とともに紹介することもある、ゆるーい連載。夜な夜な、お酒の肴の一つに加えてみては?
酔いどれDが推奨!この噺には、この一杯!
シェリー酒「ラ・ヒターナ」
「今宵は1992年バルセロナ五輪に因み、スペイン南西部のシェリー酒「ラ・ヒターナ」を冷やして。鋭い切れ味にはシンプルな塩味の肴、ぺルセベス(海岸の岩場に生息する甲殻類の一種=カメの手)の塩ゆでを。レモンを絞って至福の一献」(酔いどれD今宵の一言)
吉田沙保里も危ない!?
過去の日本チーム主将はメダルから見放される
初めて柔道場に立った時のことを覚えている。道場を静かに支配するイ草の香りに、自然と体幹は引き締まり、ヒンヤリとした青畳の凹凸は足裏に心地良かった。

2016年、リオデジャネイロ五輪の日本チームの主将は、五輪4連覇を狙う女子レスリングの吉田沙保里に決まった。夏の五輪で初めて女子主将の誕生である。男子選手が主将を尻込みする理由は悪いジンクスがあるからかもしれない。1992年バルセロナ五輪の主将は柔道の古賀稔彦だった。古賀は開幕前に左ひざの大怪我を乗り越え見事に金メダルを獲得したが、それ以降、主将になった選手はことごとくメダルから見放されている。

・1996年アトランタ・マラソン、谷口浩美。*19位
・2000年シドニー・野球、杉浦正則。*3位決定戦敗戦
・2004年アテネ・柔道、井上康生。*4回戦敗退
・2008年北京・柔道、鈴木桂治。*1回戦負け
・2012年ロンドン・やり投げ、村上幸史。*予選敗退

04年アテネ主将・井上康生は5年間無敗だったのにも関わらず本番であえなく敗退。08年北京主将・鈴木佳治は1回戦負けの後、敗者復活戦ではわずか34秒で1本負けだった。ニッポン柔道の大黒柱ふたりの惨敗は、主将に対するマイナスイメージをかなり大きくした。選手団の顔である主将は試合以外にも神経を使う役割、その重圧は測り知れない。「霊長類最強」と称される国民栄誉賞レスラー吉田に限ってまさか、とは思うが、五輪は魔物の巣窟、絶対はないと思う。
女子選手として史上初夏季五輪の主将を任されたレスリングの吉田沙保里。主将が金メダルから見放されているというジンクスを打ち破れるか
青畳もどきで古賀稔彦が怪我
叫び声が今でも蘇る
92年バルセロナ五輪。日本柔道チームの練習会場=道場はIBC(国際放送センター)から歩いて10分ほど、雑居ビルの確か3階にあった。階段を昇り、その道場に一歩足を踏み入れて、私は目を、そして鼻を疑った。そこには心身を自然と引締める、あのイ草の香りはなかった。敷かれていたのは、ただ青い色をした絨毯仕立ての“青畳もどき”だった。

IBCには世界各国のテレビ局の放送ブースがあり、スタジオ、編集室などが設置されていて五輪期間中、私たちはここを基地にして日本に向へ映像を送り出す。日本とバルセロナの時差は7時間。五輪開幕前から、朝、柔道場に顔を出し、日本に向けた放送をし、ランチ後に撮影クルーと練習場に向かうのが私たちの日課のひとつだった。

開会式を前に、その“青畳もどき“の上で、日本選手団の主将、金メダルを絶対視されていた71キロ級代表・古賀稔彦が大怪我を負った。後輩の78キロ級代表・吉田秀彦と乱取りの最中、背負い投げを仕掛けた際、態勢を崩し左足側副靭帯を損傷したのだ。

試合まで10日余り、選手生命にも関わる大怪我だった。古賀が吉田の懐に飛び込んだ刹那、声にならない古賀の悶絶の叫びが道場に響く。その瞬間を捉えたのは私たちのカメラクルーだけ。道場に通う日課が決定的瞬間を撮影できた大きな理由だった。

古賀の叫びは今も耳に焼き付いている。

そして思わぬ形で先輩・古賀の大怪我の当事者となってしまった吉田の苦悩の表情も忘れる事が出来ない。柔道の私塾・講堂学舎で中学時代から、兄弟のように育ち、金メダルを目標に己を磨いて来た二人。“青畳もどき”の上で日本の主将が、ニッポン柔道が、大ピンチをむかえていた。
バルセロナは『田村亮子伝説』始まりの地
スペイン・バルセロナから田村亮子がスーパースターになっていく
この日を境に、古賀は練習会場に顔を出せなくなってしまった。歩行するのにも1カ月は必要だという重傷。古賀は試合を棄権してしまうのではないか、密かに帰国する事はないだろうか、そんな憶測が地中海の街で揺れた。

試合会場に青畳が搬入される日。私はスコットランド人カメラマンとニュージーランド人音声マン=外国人クルーと連れだって試合会場を訪ねた。戦いの舞台となるのはパラウ・ブラウグラナ<青と深い赤の宮殿>という意味らしい。

会場のボランティアをするスペイン人のラテン気質に賭け「ちょっと中を見て良いかい?」と問うと、簡単にOK。大らかな時代だった。難なく試合会場への潜入に成功。開幕まで約1週間、試合会場は設営の途中、ボディーチェックのゲートもまだ出来ていない状況だった。しかし、中央には、青畳が設えられていた。近づき、そっと触れてみる。ヒンヤリとした青畳の凹凸の手ざわりは、やはり心地良い。果たして、この場所に古賀は立つことが出来るのだろうか。その事しか、頭にはなかった。

一方、バルセロナ五輪は女子柔道が正式競技となった大会でもあった。48キロ級代表は後に女子柔道の顔となる田村亮子、当時高校2年生。中学3年生の冬に初出場を果たした福岡国際女子柔道大会。48キロ級で無敵を誇ったイギリスのカレン・ブリッグスを一気に攻め立て初優勝した光景は、まさに衝撃だった。

翌年の正月、田村の初稽古を福岡で取材した。当時のスタイルは「先手、先手と攻め立て1本を奪う柔道」。稽古の後、博多湾に面した名島神社でトレーニング風景を撮影した。田村は、50メートルを7秒台前半で走る俊足。素早い足の回転で、砂浜ダッシュを20本。そして本宮までの階段を一気に駆け登ってみせた。

さらに、田村の小学5年時の稽古映像を見た。映されていたのは鮮やかに“燕返し”が決まる瞬間だった。田村の右足へ、相手が左足で足払いを仕掛ける。田村はそれを瞬時に察知し、相手が狙った右足を素早く動かし、払ってきた相手の左足を、狙われた右足で先に、払うというワザである。スピードとセンスがないと決められないワザだ。私は柔道部時代に何度か試みたが全くできなかった。そんな田村の五輪を縦軸にした長いストーリーもバルセロナで始まった。(前編終わり)

※後編は8月5日アップ予定
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